ヒトの視覚情報処理に基づいた運動制御~やわらかな運動制御系の構築~
背景
近年さかんにおこなわれている脳科学は、神経細胞の発火を基本原理として脳活動の解明に迫っています。しかし、機能の細分化が進み脳の全体像からかけ離れているように思えます。 そこで、現象論的なアプローチをとり、より抽象的な脳の性質を体系化する必要性があるのではないかと思われます。その体系をもとに脳の機能の有機的なつながりが明確になるのではないかと考えています。
ヒトを研究対象とするためには、実験、解析手法の客観性を維持することが重要です。そこで、ヒトをブラックボックスと見て、入力情報と出力情報を測定可能な物理量をもとにヒトの認識メカニズムを追求するという手法をとります。
ヒトは出力情報も含め常に外界の情報を取り入れるので、絶えず移り変わる動的なシステムと見ることができます。
たとえば、視覚を頼りに対象を追いかける場合は、入力情報として対象物体の位置を、出力情報として身体の位置を測定します。
また、考察にあたって前提を明確にしておく必要があります。出力情報には、入力される物体の速度や加速度も反映されると直観的に感じられますが、ここでは、ヒトは始めに物体の位置を認識すると仮定します。これは、速度や加速度は位置を手がかりに知ることができるため、第一義的には位置に注目すべきだと考えられるためです。
ところで、このようにして得られる、ヒトの視覚情報に基づいた運動制御のメカニズムは、運動制御系の構築に応用できます。 生物の認識メカニズムには、有限な神経伝達速度や身体の物理的制限を克服するための戦略が含まれています。 したがって、より柔軟で汎用性の高い制御系を構築できると考えられるからです。
目的
本研究の目的は、ヒトの視覚情報に基づいた運動制御メカニズムを解明することです。
実験手法
被験者を募り、心理実験を行います。スクリーンには、青い丸で表わされるターゲットと赤い丸で表わされるトレーサーが写しだされます。ターゲットはあらかじめ決まった運動をプログラムしておきます。トレーサーは被験者の手元にあるマウスと同期して動きます。そして被験者には、「ターゲットをトレーサーに正確に合わせる」という課題を与えます。
被験者は、暗室でスクリーンに向かって椅子に座ります。はじめはPCのデスクトップで行っていましたが、十分な視野角を確保するためにこのような実験系にしました。
今回の実験は、ターゲットの運動を等速直線運動に限っています。 左から右へ等速直線運動し、スクリーンから消えるとまた左に出現します。 十分遅いと感じる速さから、十分速いと感じる速さまで、速さを5段階に設定し、それぞれの速さに対して10回繰り返し、ターゲットの位置とトレーサーの位置を記録します。
解析方法
まず、ターゲットとトレーサー間の距離の時系列を算出し、距離の分布をとります。この分布をガウス分布に近似して、その中央値を正確さ、標準偏差を精度の指標にします。
中央値が正の時は先行している、負の時は遅れている。0に近いほど正確であるといえます。
標準偏差が大きい時はぶれが大きいので精度が低いといえます。
次に速さの解析方法です。トレーサーのターゲットからみた相対速度をフーリエ変換して、スペクトル強度をみます。
実験結果
実験を被験者4人に対して行った結果です。 このグラフは横軸がターゲットの速さで縦軸が正確さを表しています。速くなるにつれて正確さを失っていくことを示しています。
こちらは、横軸がターゲットの速さで、縦軸が精度を表しています。速くなるにつれて、精度が悪くなっていることがわかります。 これらの2つの結果から、速いほど合わせることが困難になっていると解釈できます。
次に速さの解析結果です。これは、ある被験者の特定の速さにおける10回の試行の、トレーサーの速さをフーリエ変換したものです。ピークが現れる試行が多く見られます。
しかし、ターゲットの速さや被験者ごとに特徴はさまざまです。
そこで、10回の試行のフーリエ変換の平均をとることで、ターゲットの速さと周期性の関係から、被験者の合わせ方の特徴を抽出することにしました。
解析手順は、次のとおりです。
①被験者のそれぞれのレベルにおいて、各10回の試行のトレーサーの速さのフーリエ変換を平均する。
②最もスペクトル強度が大きくなるときの周波数を得る。
ここで得られた周波数が被験者の合わせ方の最も特徴的な周波数であるといえます。
結果としてこのようなグラフが得られました。ターゲットの速度が遅い時は被験者ごとに、さまざまな周波数をとりますが、レベル4の時にすべての被験者で値が一致しています。ターゲットの速さが速いほど収束しているとも捉えられます。
考察
以上の結果について考察します。
まず速さに周期性が出た点についてです。
これは、ターゲットとのずれが大きくなったら補正するを繰り返すことで生じたものと考えられます。そこで、ターゲットとトレーサーの距離に比例した加速度を生み出す運動制御モデルを仮定して、ばねの単振動と比較してみます。加速度で制御すると、安定点で速度が0にならないので、行き過ぎてしまいます。その結果、周期性を持った運動をすると考えられます
次に、特定の速さで被験者に共通な周波数が得られた点についてです。ばねの振動をもとにした運動制御モデルでは、比例定数によって、振動の周波数が決定します。その周波数と対応するのが被験者に共通な周波数だと言えるのではないかと思われます。はじめは、個別の戦略で課題をこなしてきましたが、速くなって戦略が通じなくなった時に、ヒトの本来的な運動制御を行った結果、このように共通した周波数が得られたのではないかと思われます。
まとめ
ひとつは速さに周期性が現れたことです。このことから、対象とのずれを手掛かりに加速度で制御しているのではないかと思われます。 ふたつめは、特定の速さで共通の周波数が得られたことです。これは、加速度による制御を裏付ける普遍的な周波数の存在を意味するのではないかと考えられます。