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第2回「科学と社会」意見交換・交流会
結果報告(ゲスト:瀬名秀明さん)

文責:大草 芳江 (2009年5月12日) カテゴリ:「科学と社会」意見交換・交流会(13)

 「科学と社会」意見交換・交流会は、毎回各界のゲストを迎え、「科学」と「社会」はどのようにつながっていくべきなのかをテーマに、様々な立場の方々とのディスカッションを行うものです。「科学と社会の関係性」についての捉え方は、立場によって異なります。議題は、ゲストが「科学と社会の関係性」をどのように捉えているのかというところからスタートし、その切り口から、参加者同士で活発なディスカッションを行います。

 第2回目は、作家の瀬名秀明さん(前・東北大学工学部機械系特任教授)をゲストに迎え、20名の参加者とディスカッションを行いました。瀬名さんは、小説を通してサイエンスを表現すると同時に、ロボット研究者、脳科学や複雑系などの研究者と共同研究を行っていたり、特任教授任期中に大学院生向けの「未来について考える」自主ゼミを行ったりと、作家の枠にとらわれない幅広い活動から、サイエンスを表現されている方です。

 瀬名さんからの切り口は、「作家として科学を書くとはどのようなことなのかを前提としたところで、①科学コミュニケーターを支援しながら何かを一緒にやるとしたら、作家として、どのような方向性・枠組みがあるだろうか。②ロボット産業ではなくロボット文化としてのロボットを通して地域を活性化するには、これからどのような取組みが考えられるだろうか」でした。

 18:30~19:00は、今回の切り口について、瀬名さんからその意図をインタビュー形式でお話を伺う講演会からスタートし、19:00~21:00の2時間は、宮城の日本酒も交えながら、科学に関する多様な立場の方々との意見交換・交流会を開催しました。

 今回は、立場の異なる多様な参加者が、ゲストの瀬名さんにそれぞれインタビューするような形式で意見交換をし、ゲストの持つ「科学と社会」像が多面的に浮き出ることを目指して構成しました。明確な落としどころをつくることを主目的にせず現状認識を主な目的としましたが、「サイエンスコミュニケーションとは、そもそも何か」が根底に流れるテーマとなったようです。「あの情報には、このような意味があった」と自から位置づけたときに、その人にとってはじめて情報になる会になったと思います。

日時 2009年5月9日(土)18:30~21:00(開場18:00)
場所 東北大学百周年記念会館(川内萩ホール)会議室(仙台市青葉区川内40)
※駐車場がございます
ゲスト 瀬名 秀明 氏
(作家、前・東北大学工学部機械系特任教授)
ゲストの切り口 「作家として科学を書くとはどういうことなのか」を前提としたところで、
①科学コミュニケーターを支援しながら何かを一緒にやるとしたら、作家として、どのような方向性・枠組みがあるだろうか。
②ロボット産業ではなくロボット文化としてのロボットを通して地域を活性化するには、これからどのような取組みが考えられるだろうか。
司会 大草芳江(natural science 理事、宮城の新聞)

「科学と社会」意見交換・交流会の詳細につきましては、こちらをご覧ください

ゲストプロフィール

瀬名 秀明 Hideaki SENA(作家、前・東北大学工学部機械系特任教授)

1968年生まれ、静岡県出身。薬学博士。1990年東北大学薬学部卒。1996年同大学院薬学研究科博士課程修了。1995年に『パラサイト・イヴ』で第2回日本ホラー小説大賞を、1998年に『BRAIN VALLEY』で第19回日本SF大賞を受賞。1997年4月~2000年3月、宮城大学看護学部講師。2006年1月、東北大学機械系特任教授に就任。小説の他にも、文芸誌や科学誌で科学と人間に関したコラムや対談を多くこなしている。

【宮城の新聞】
瀬名秀明さんに聞く(作家・東北大学工学部機械系特任教授)/科学って、そもそもなんだろう?
はこちらからご覧になれます。

参加者(申し込み順)

【ゲスト】
瀬名秀明氏
作家、前・東北大学工学部機械系特任教授
高橋延一 有限会社キャンパス代表
伊藤芳春 宮城県鶯沢工業高等学校 校長
小松健一郎ACL
小川智久 東北大学大学院生命科学研究科・准教授
西山英作 東北経済連合会産業経済グループ部長
小粥幹夫 東北大学工学部情報知能システム総合学科 特任教授
柿崎真沙子 東北テクノアーチ
新田秀悦 新東総業(株)
小原有策 (独)産業技術総合研究所東北産学官連携センター テクニカルスタッフ
澤村範子 仙台市立愛子小学校PTA役員
小崎茂 宮城県仙台第一高等学校
畠山茂陽 河北新報社
以下NPO法人 natural science メンバー
遠藤理平代表理事
林叔克東北工業大学特別研究員
大草芳江宮城の新聞
大野誠吾東北大学大学院理学研究科助教
八重樫和之東北大学工学部4年
佐瀬一弥東北大学工学部3年
結城麻衣東北学院大学大学院人間情報学研究科1年
田村友里恵東北学院大学教養学部4年
高城敦子東北学院大学教養学部3年

18:30~19:00
瀬名秀明さん講演会(インタビュー形式)の要約

―「作家として科学を書く」とはどのようなことか

 「作家として科学を書く」と自分では思っている。けれども読者の中には、「科学者が小説を書いている」「瀬名が書くのは科学ではない」「科学者と作家は全く違うべきものである」という考え方の人もいるだろう。

 僕自身のスタンスとして、作家は「どのような表現をしても良い人」。ノンフィクションと小説の両方を書いているし、このような講演もしている。僕は全体として表現だと思っている。科学者でも同じように、専門だけでなく、コミュニケーターとしてやるのも得意な人がいると思う。適材適所、それぞれその人が一番やりやすい方向で表現すれば良い、あるいは研究すれば良いと思っている。「小説も今後、科学になる」という考えで、僕自身は科学者であり小説家としてやっているつもりだ。

 それぞれ一人ひとり、作家のスタンスは違う。例えば『サイエンス・イマジネーション』を監修して頂いた小松左京さん。『日本沈没』を書かれた方で、もともとは京大でイタリア文学を専攻されていた方。この方は「科学は今後、文学になる」という考え方をしている。けれども言っていることは表裏一体で、そんなに違いはないと僕は思っている。小松さんがイタリア文学を専攻した理由は、子どもの頃にダンテの『神曲』を読み、文学の中の科学的描写に感動して、ダンテに惹かれたかららしい。小松左京さんは、いろいろなメディアを横断して表現されてきた作家。一方、作家の中では小説しか書かない人もいる。それも作家のスタンスとして、ありだ。このように作家のスタンスは様々だが、その中で僕はこのようなスタンスでやっている。

 14年前にデビューしたが、当時と比べると「いろんなことを作家はやっても良い」と思ってくれる人が増えてきている。いろんなスタンスの人がいて、いろんな考え方があるが、僕はそのようなことを考えて、科学のことを語っている。以上が、前提の部分だ。

―そもそも「サイエンスコミュニケーション」とは?

 サイエンスコミュニケーションをはじめからやろうと思ったわけではない。全然科学と関係なく、小説が好きで小説を書いていた。ミステリー小説として、どうしたら売れる本になるかと考えた時、専門分野をはじめて書いたのが『パラサイトイブ』。ただ当時は、オウム真理教事件の影響もあり、科学者が人を怖がらすのは如何なものか、という議論が真面目にあった。大学の中で取材を受けることも嫌がられた。けれども14年経って社会は変わり、柔軟になってきたと感じている。
 僕は、地元仙台でシンポジウムやサイエンスカフェ、小学校での講演などを割とやっている方だと思う。講演は「(特別な存在である)作家の話を拝聴する」ような会ではなく、時には僕がインタープリタになり、時には僕も喋り、コミュニケーションとして面白い話をしたい。また時にはインタビュアーとして、研究者と対談する場合もある。その時は、なるべく自分の話は語らないようにして、研究者の人生観や研究観を聞く。今やっている研究に、なぜはまっていったのか。なぜおもしろいと思うようになったのか。それを聞くと、研究者としての歩み、何を面白いと思うのか、世界とどのように関わろうとしているのかがわかるし、その人の内面に迫りやすい。そこで共感を覚えたりすると、「実は、僕もこういう感じで小説を書いているんです」と自分のことも話して、対談する。
 最近、理論書がたくさん出ている。そこには必ず「コミュニケーションとは、一方向ではなく双方向だ」と書いてある。コミュニケーションであるからには、お互いの言葉でお互いが変わらなければ駄目だと。それは確かに難しいことではあるが、むこうが自分の小説を読んで、何かしら研究の刺激になれば良いなと常に思うし、僕自身もこのような活動に何かしらの影響を受けて、面白いことがさらにできれば良いと思っている。

―研究活動について

 昨年出版した恋愛小説『エヴリブレス』は、重層する仮想世界で自分の分身が、いろんなレイヤーでいろんな人生を送り、いろんな恋愛をしているという話。その世界観には、ロボット関係の研究者と『社会的知能発生学研究会』で議論した際に考えたことが入っている。
 小説には『ブレス』という仮想世界が出てくるが、そのプリミティブなバージョンとして、「人とロボットがどうしたらコミュニケーションしながら社会的活動ができるか」をシミュレートするプラットフォームを開発中だ。年間1千万円の予算が『国立情報学研究所』からつき、今年で3年目の研究である。
 実際、僕らがデモンストレーションしているのが、ロボットと人間が一緒にお好み焼きをつくるシチュエーション。例えば手がふさがっているとき、あっちを見ただけでコショウを取ってくれるとか、お皿を並べてくれるとか。これまでは文字で書いて命令するしか方法がなかったが、今後ロボットが家庭の中に入る上で、それらを文字で書かなくともできるかが非常に重要なタスクになると言われている。このような「社会的コミュニケーション」をシミュレーションできるプラットフォームはこれまでなかった。これらは小説のアイディアと同時進行で出てきた科学研究である。

―大学院生との自主ゼミについて

 東北大工学部機械系の特任教授には、2006年1月から2009年3月まで就任。今は増えてバラエティー豊かになった特任教授だが、当時はまだ少なく、大学の研究者や学生と話をして、広報をすることがひとつの仕事だった。それ以外に学生達と話す機会があれば良いと思い、単位にならない自主ゼミをはじめた。学部生ではなく大学院生対象。少人数制で参加自由。はじめは工学研究科機械系だけだったが、他研究科の学生も参加するようになった。
 「100年後の未来をつくる」ことが僕のミッションだったため、その一環で「未来を考える」をテーマに行った。けれどもそもそも僕ら、未来を考える機会は普段ほとんどない。未来を考える仕掛けが欲しい。そこでゼミをやり、あえて自分の研究とは全然違うお題をひとつ決める。お題に絡めて、自分の考える未来について、あえて無理くり語ってみる。その中で自分の研究に絡めた話でもいいし、そのとき感じたことを語っても良い。自分の未来を考えるきっかけづくりとしてお題を皆で設定し、2ヶ月に1回くらいのペースで、「贅沢な遊び」というスタンスで行った。
 自主ゼミの取組みを学会や講演会等で発表した。興味を持ってくれた人もいたが、「本当にうまくいっているか」「どうすればうまくいくか」と聞く人もいた。幸い僕の場合は、学生に面白い人が多く、いろいろな話題をふってくれた。僕も刺激になったし、非常に良かった。


19:00~21:00
意見交換・交流会の主なディスカッション内容
(―は参加者、その他は瀬名秀明さん)

―研究室配属されたばかりの工学部4年生。自分は工学部に「好きなことして新しいものをつくりたい」と思って入った。けれども工学部の場合、目的がはっきりと決まっている。たとえ学生が「未来はこうしたい」と話しても、結局実現できないのでは。

 僕も4年生の頃は、未来を語れなかった。けれども例えばオープンキャンパスのとき、なぜ自分がこのような実験をしているのか、説明しないといけない。未来について、話さないといけない。大学でそのような機会があると、何となく自分はこういう未来をつくりたいとか、こういうところとつながっていくんだと、自分の中で、何となくわかってくるところがある。未来のビジョンが見つかってくるのでは。あえて教授にそのような話を聞いてみると良い。答えられない教授はそれまで。もっと学生と大学の先生が話す機会が多くて良いと思っている。

―教授に話しても結局、日々やることは変わらないのでは?

 「おもしろいな」と思ったものは、自分の心の中にとっておく。すると他のものを見たときも、何となく自分とのつながり見えてくる。「おもしろいな」と思ったのだから、自分の興味とどこかでつながっているはず。毎日、同じ実験をしているようでありながら、実は、そのようなこととつながった考察ができるようになる。ひょっとしたら、卒論の厚みを増すものになるかもしれない。

―生物物理の分野で日々研究している研究者。大学生と一緒に、科学を如何に地域へ根付かせるか、教育プログラム開発にあたっている。「未来がこうだったら良い」とイマジネーションを膨らませても、実際に自分が行動した因果関係で社会を認識する現場がなければ、逆に、日々やっていかなければならない部分と、もやもや想像した部分とが乖離するのではないか。小説家には膨らませた想像を熟成させ書く言葉があるからその意図は理解できるが、大学院生を主語にした場合にはどうだろうか。

 僕に対して「瀬名さんのやっていることは、作家である瀬名さんだからうまくいく」という意見がよくある。ただ僕は思うのだが、ふたつの考え方があると思う。ひとつは、いろいろな表現をいくつかやってみると、自分がうまく表現しやすいような媒体が見つかるかもしれない。もうひとつは、科学コミュニケーションをどれくらいのスパンでやりたいか。1~2年で結果を出すのは難しいと考えているので、何回もやるしかない。一生かかってするものだと最近は思っている。

―「サイエンスインタープリタ」育成講座は、そもそも何を目指した講座なのか?

 当時、東大と早稲田大と北大の三つに、サイエンスインタープリタ養成講座の予算がついた。それぞれスタンスが違う。東大の場合、あくまで科学者の卵が、社会と自分の研究について、良いコミュニケーションをするスキルを獲得するためのもの。北大の場合、コミュニケーションそのものを楽しんで、科学の現場を変えていこうというスタンス。早稲田大は、プロのジャーナリストを育てるスタンスだったように記憶している。

―自分の研究や様々な研究分野をよりわかりやすく伝えることは、メディアとしての意味があると思う。しかしながら、科学を社会に対して根付かせるためには、「ちょっと聞いてわかっておもしろかった」レベルではなく、受け手側が本当に科学的な考え方を身につけることができたのかという深い掘り下げが必要なのでは。そのために自分は大学生と科学教育プログラムを開発している。大学生が科学のプロセスを対象化し、自分だったら何がどう面白いかを中軸にしたところで、学問体系を再構築し、自分が行動した上で、世の中に価値として認められたのか・認められなかったのかが評価される現場が必要なのではないか。

 ご質問は、重要な問題提起を含んでいる。サイエンスコミュニケーションを客観的に評価する基準はない。「人がたくさん入った」「儲かった」以外の基準は何かあるのかと聞いたことがあるが、答えはなかった。そもそもコミュニケーションに定義がないので、定量化できない。コミュニケーションを定量化する・定性化することができたら画期的。それ位、難しいことだと思う。
 もうひとつ本質的な問題が、サイエンスのコミュニケーションをするのが、なぜ良いと思うのか。なぜサイエンスに焦点を当てているのか。最近は『ゲーム離れ』も言われているが、こういうところに来れば、サイエンスを選択している。僕がなぜこのような話をしているかと言うと、単にサイエンスも小説も好きだから、おもしろいと積極的に言いましょう位の感覚しかない。それは自分の単なる趣味としか言いようがない。

―「サイエンスコミュニケーション」を一言でいうと?コミュニケーションというと幅が広いので、サイエンスとコミュニケーションの関係がよくわからない。

 幅広い範囲の科学に関して、同じく興味を共有しながら、それぞれの感性を高めあうようなものが、サイエンスコミュニケーションなのだろう。お互いに科学はおもしろいと言って、いろんなアクションができる。それが、理想的なサイエンスコミュニケーションではないか。

―サイエンスはわからない・興味がないという人に、わかってもらうための動きとは別のものか?

 アピールとPRは違う。アピールは「科学はおもしろい」と啓発啓蒙をすること。PRはパブリックリレーション、公共的に関係性をもつこと、双方が何かしらの変化をすることがPR。一方的に「この研究はおもしろい」と言うのは、PRと言わないそうだ。お互い得るものがある関係性を、PRと言うようだ。

―河北新報社のメディア局で、地域SNSの新聞社版をやっている。営業をやっているのでパブリックリレーション的発想はよくわかった。「これを聞いてね」という話だけでは駄目で、受け止める方々が感じとめてくれないと。このような場自身が生み出す力があるのではないかと、頷いて聞いていた。コミュニケーションの定量化・定性化の難しさにも共感する。ロボット文化が生み出す地域活性化のゴールも定量化が難しいが、ロボット文化をつくることで、どう地域活性化できるのか。いろんな切り口を教えて欲しい。

 僕はロボット関係の仕事が多い。毎年『知能ロボットコンテスト』の審査員を務めているが、この知能ロボットコンテストが日本で一番おもしろいと思う。どのくらい分別回収できるかを競うゲームだが、審査員は見せ方も評価し、その総合点で競う。知能ロボットなので、リモコン操作はしない。アイディア次第で、単純な機構で分別できる人もいれば、プロの人が作り込んで動かない場合もある。毎年盛り上がっているが、地元メディアは放送しない。20年の積み重ねがある。最初のルールをつくった人がうまかったので、ほぼ同じルールで行われている。
 もうひとつは、NECがつくったコミュニケーションロボット『パペロ』。ショールームが全国で東京・大阪・仙台の3箇所にある。昨年、パペロのアイディアコンテストで審査委員長を務めた。2010年に実現できるアイディアのアプリケーションを競うもので、他にはないものだと思う。工学部のエントリーは少なく、経済学部、福祉関係の人、デザイン関係の人たちが多かった。ロボットにはじめて触れ、皆で話し合いながら、一種のアートとして表現してコンテストをやるのはおもしろい。1回しかやっていないが、何年か継続的に行えば、ロボットの街・仙台となる可能性があるのでは。

―機械系の学部生。ロボットと聞くと未来に希望が持て、わくわくするのが、ロボットをやりたいと思ったきっかけ。けれどもロボットの話題でいつも疑問に思うのは、東北大学工学部でつくっているロボットを見て、実際の生活でやってけるのか、研究とのギャップが大きいと感じている。

 研究者の人の、問いの立て方。僕が好きな研究者は、壮大な問いを出した時に、「今はここしかできていないけれども、俺はこういうところを目指してやっている」とビジョンを明確に語ってくれる人。一方、そうではない人もいる。理想を言いながら、研究に落とし込まなければならない現実に対し、できたものは当初の理想とかけ離れて、理想にもステップアップできないものになりがち。それは研究のデザインとして如何なものか。そこは初志貫徹して欲しいし、自分の中で見えていて欲しい。

―東北大学理学研究科で助教。人間の代わりになるロボット以外に、瀬名さんのロボット像、別の基軸にのったようなロボットのあり方などはあるか。

 ロボット研究は、だいたい3つに分かれると思う。一つ目は、産業用ロボットなど、人の役に立ってくれるロボット。二つ目は、エンターテインメントロボット。三つ目は、ロボットをつくることで人間がわかるロボット。それぞれ重要だが、地域活性化の面で言うと、産業用ロボット以外に、エンターテインメントロボットを地元でつくろうという動きがあっても良いのでは。産業ロボットを地元で作る以外の文化の発展。それぞれの地域が、特色を出せるところだ。そのようなことなら、僕も作家として、コミットできるところもあるのでは。

―産総研のサイエンスコミュニケータ。バイオ出身。どこまでがコンピュータでどこまでがロボットなのか、その境目がだんだんわららなくなっている。瀬名さんはどこまでをロボットと考えるか。

 僕の『デカルトの密室』という小説では、人間がひたすらロボットに近づいたり、ロボットがひたすら人間に近づいていき、境界が曖昧になっていく話。知能を持って自分で自律的に動くものが、ロボットの定義では。

―生物物理の研究者。プログラミングする立場から。知能や知性は、ある条件において何かしらの最適化のアルゴリズムを人間がプログラムとして書いて、あくまで条件分岐の中としてつくっているもの。それを僕がギャップとして感じるのは、果たしてそれを知性・知能と呼んで良いのか。

 『ロボット・オペラ』にはいくつか定義を書いた。知能の定義は、時代とともに変わる。

―ある状況下で何か最適化したいものがある。それをさらに最適化するようなものをつくって最適化関数で最適化する。それが無限入れ子構造になっている。そこで結局、何が知性なのか。概念的に、最適化以上のものを感じない。

 僕らもそうしている。その折り合いをつけるのが知能だとも言えるのでは。知能の話をすると難しい。

―東北経済連合会で、普段は技術系のベンチャー企業の支援や、産学官連携のコーディネイタをしている。本日参加したのは、日本型イノベーションシステムについて議論したいことがあるため。ロボットに対して感情輸入できるのが日本的だと最近読んだ本に書いてあるが、瀬名さんはそう思うか。

 それは永遠の課題。昔は日本特有という考え方が支配的だった。しかしディズニーのロボットアニメ『アイアンジャイアント』は、日本のロボットアニメ以上に、日本のロボットアニメ的。そのような映画もできているので、日本特有かと言えば、そうとも限らないのでは。ただ「フランケンシュタイン・コンプレックス」のように、ロボットは怖い・人間を支配するのではないか、というイメージが欧米には強烈にある。

―欧米も徐々に、コミュニケーションの切り口が増えている。それは日本的なものが先行したため、と考えるのはどうか。

 日本の文化が輸出され、海外で花開いた可能性はあるだろう。ただ「ロボット三原則」は、人間がよりよく生きるための法則、人間の倫理観を規定しているとも言える。ロボットを通して人間を考えるという考え方は、アメリカのSFにもあったのでは。一概に言えないのでは。

―東北大工学部の特任教授。医療問題を解決してくれる支援ロボットを期待している。医療の根本的な問題は、ロボットが代わりに解決してくれるものではない。人間、動かないと退化してしまう。そのとき人がどこまでできて、どこまでできないかをロボットが理解して、必要なことだけを支援してくれるロボットが欲しい。人間とは何かを理解しないと実現しないことかもしれない。病気になる前に防ぐロボットが必要なのでは。

 確かに自分で歩けることは重要。それをサポートしてくれるロボットは大切。けれども何をすれば助けてもらったと考えるのかが、難しい。ロボットに何を手伝って欲しいかをデザインするのが大変。

―高校の生物教員。日常ではこのような話を聞ける機会がないため、大変有難い。自分は生物専門なので、ミトコンドリアや薬学の酵素化学反応の話だと波長が合うし、理解できる。それなのに瀬名さん(薬学博士)がロボット分野へ行ったのは、いかなる経緯か。

 直接のきっかけは、編集者が「ロボットの本、書いてください」と言ったのがきっかけ。けれども僕はその時、断らなかった。様々な専門家に話を聞くうちに、ロボット研究者も、生物の動きや社会行動、コミュニケーションに興味を持っている人がたくさんいることがわかり、生命科学を勉強している僕もロボットにのめり込んでいった。
 ただ子どもの頃を考えると、プラモデルを作るのが割と好きだった。また僕は静岡出身だが、隣町にある『海洋科学博物館』と『人体科学博物館』という、人間や生物を機械として見せる特異な博物館が好きだった。水族館には魚もいるが、水槽にロボットの魚もいた。動きもリアルで、すごく面白い。「モータとプラ版だけで、よくこんな動きができるな」と子供心に不思議だった。自然現象や生命を、機械で作っていることに衝撃的を受けた。生命と生命ではないものは何が違うのだろうと、子供心にすごく不思議だった。

―『パラサイト・イブ』を書いた時、はじめからあれほどの恐怖を持たせようと意図したのか。

 自分の研究室で、夜中にぞくっとする感じとか、怖い感じを、書いている。それは嘘をついていない。ひょっとしたら、そこが評価されたところかもしれない。

―『パラサイト・イブ』で、死んだ妻の細胞を培養する発想に、恐怖を感じた。

 実は最初、怖いことは自分ではわからない。研究者にとっては、それが普通だから。小説を書いたきっかけが、法学部の同級生に自分の研究を話したら非常に怖がられて、逆に傍から見ると怖いことがはじめてわかった。他者の視点があってはじめて、怖いとわかったことを教えてもらえたのが重要だった。

―生命科学研究科。初参加。ロボットは『パーマン』だったらまだ許せる印象がある。100年後くらいにできるのでは。

 コピーロボットくらいはできているかもしれない。だって『ドラえもん』が、2112年9月3日でしょう。あと103年後にできるのだから。何が怖いと思うのか。怖さは時代と共に変わる。

―教養学部4年生。ロボットが人間に近づく、人間がロボットに近づいていく話があった。不思議に思うのが、ロボットが人間に近づくのはわかるが、人間はどうなったら人間ではなくなるのか。

 それは簡単な話。トータルではなくてパーツで、こういうものが好きだとまず自分で決めて、その場を凌いで行く画一的な反応が、非常にプログラミング的だと思う。例えば『一杯のかけそば』という話を読むと、なんとなく悲しくなる。今の携帯小説もそうでしょう。あるつぼを押されると、こう反応する、というのが決まっている。そのようなものをうまく組み合わせれば、泣けるようなストーリーができていく。そういう意味では、我々は非常にロボット的。
 例えば2chで定型文句がたくさんある。ほぼ人工知能で話しているようなもの。けれども何となく楽しい。我々は半分くらいロボット的なところでなんとなく楽しんでいる。ただ僕は小説家なので、機械的に感動させたりするところも当然入れるが、それだけでは芸術ではない。作品によって、幅を持たせて、実験をしている。
 僕の尊敬する作家で、ディーン・クーンツが『ベストセラーの書き方』という本を書いている。こうすればベストセラーになれると書いてある。しかしそれだけでは、本当に良い小説にはならない。プラスアルファで他の人には書けない何かを入れていてはじめて、本当のメインストリームフィクションだと書いてある。学生の頃に感銘を受け、こういう作家を目指したいと思った。
 研究でも同じ。例えば遺伝子はたくさんあるから、何かスクリーニングしてクローニングしていろいろ調べれば、何となく一生を過ごせると思う。けれども、同じ遺伝子を研究するにしても、単にクローニングするだけでなく、その人ならではのアイディアがあって良い研究をする人がいる。

―愛子に住む小学校PTA。昨年、紙ヒコウキを題材にして、瀬名先生に講演して頂いた。子ども達へのアンケートでは、講演によって、飛行機への興味が湧いたとあった。そのようなものが、サイエンスコミュニケーションでは。
 「科学で地域づくり」にどうしても欠かせないのは教育。そのようなことに興味を持ち、そのような視点をもった子ども達が地域で育つことは、大人に対しても影響を与えること。
 しかしながら、そもそも地域に興味がないと、近くに電波高専や天文台があっても、結局そこに触手が伸びない。実際、これまでつながりもない。よって、パイプ役の人間、優れたサイエンスコミュニケーターが必要である。
 なぜ皆、科学に対して興味があるか。きっとこの中にドラマがあると信じ、そのドラマをどう展開して見せてくれるのかなと期待しているのでは。
 しかしながら今の子ども達にとっては、科学が「もの」になってしまっている。そのため、科学を「どう使うか」には発想が行くが、科学を「どう発展されるか」「どう研究していくか」に向かないのが、今の理科離れでは。子ども達をお客さんにしないで理科好きにする、科学的な視点や興味を持たせるには、そのおもしろさをどう伝えればよいか。それを伝える人(サイエンスコミュニケーターなど)をもっともっと産み出して欲しい。

 「とっておく」で良いのだ、という感覚を、ちゃんと教えるのが僕は重要だと最近思う。ある人の引用で、共感したものがある。「世界文明で有名な文学がある。読めば面白いが、読もうとしない。世界文学はとっておけ。何時でも読める状況で、枕元においておけ」。科学も文学も同じ。ある日突然読みたいと思うときが来る。読んだら絶対面白い。つまり、10年、20年後に面白いと思えるような環境づくりをすれば良い。まわりの人が「おもしろい」と興味をもって何か興味をもてる環境をつくるのが大事だし、それを「おもしろい」と思える小中学生の教育をしておくことが重要だ。逆に子どもが「別に自分は関係ないし」となっては駄目。

―小学生は瀬名秀明が何者かはわからない。それでも瀬名さんの持っている力や何かが伝わって、すごく印象付けられたようだ。

 自分の心の中に、何回かもどっていくことが必要なのでは。

―科学はもはや「結果」になっていて、そこにあるのが当たり前の状態。だから、それを発展させようとしたり、どういうプロセスを経たものかを、そもそも想像しようとすらしない姿勢が、今の科学離れの現状だと思う。何でも当たり前だと思っていると、枕元に置くまで行かない。それが問題だ。では、どうすれば枕元に置くようになるか。それは人のスタンスから受ける、何かしらの影響だと思う。本に書いてある客観的事実よりも、実在の人が「おもしろい」と思ったり、ものごとにリンクをかける力を、言葉じゃないところで肌身で感じることが、枕元に置くことにつながるのでは。サイエンスコミュニケーションも、単にわかりやすく翻訳するだけでなく、人のスタンスに一番伝える力があるのでは。誰かに翻訳してもらおうと頼る姿勢では、根本的に変わらないまま。その姿勢に影響を与えるのは、他人のスタンスだと思う。

―ハードルが高くても、小学生には何かが残るのでは。あまり小学生だからと言って、ハードルを下げ過ぎないで、楽しい部分と、わからない部分がないと、そこには疑問が残らない。

 NHK『ようこそ先輩」で鉱物の話をした。石の博物館に行って、学校へ行って、図書館に調べることをやった。けれども図書館に石の本なんて、ほとんどない。興味を持って調べようと思ったら、子ども向けとか関係なく、調べたいと思うもの。その筋道を示してあげることは必要。

―ただしその筋道を示すのは、とてつもなく大変。こちらに理解がないと、ここの飛び石の次にはこの飛び石だよ、と教える繊細さが割と必要な部分も感じる。すごくわかっている方が噛み砕いて教えてくれることに、もっともっとトライしてもらいたい。他の方が翻訳して頂いても良い。瀬名さんの仕事は翻訳に近いのでは。

―例えばこういう場に、小学生や中学生がいたら、どうなるのかな、と思って話を聞いていた。

―小中学生がいた方が、そもそもという視点で、シンプルな議論ができるのでは。

―瀬名ゼミに1年近くいた。この場もそうだが、いろんな人がひとつのことに対して、いろんな視点で話をする機会がたくさんあったのが個人的に良かった。枕元においておくか・おいておかないかが第一のハードル。枕元においたものに手が伸びるか・伸びないかに第二のハードル。自主ゼミへの参加で、伸ばす・伸ばさないの第二のハードルに、垣根がなくなったかな。

―小学生の子をもつ親。枕元に価値あるものを置いておくのが、我々の世代の役割。情報量が多いので、皆聞きたくない状況。そのバリアを取り払ってやるのが、楽しいとか、まわりがざわざわしているというエンターテインメントの世界。その扉を開けるようなきっかけをもらった。こういう場所自身が、生み出す力を改めて感じた。

 本が好きな人はたくさんいる。ただし本が好きな人であっても、特定の本棚にしか行かないだろう。1回くらいは、全部の本棚を見てみる。それは冒険だが、発見がある。けれどもほんの数歩が、なかなか行けないものだ。そこを何とか行けるような作家活動を僕はしたい。それは科学でも全く一緒。私にとってのサイエンスコミュニケーションとは、そういうもの。死ぬまで、そういうことを言う。

―中3の娘が、本を読むのが好き。伊坂さんの『重力ピエロ』を読んで、遺伝子に興味を持ち、遺伝子の本を読みはじめた。作者は何か本来伝えたいものがあるのだろうけど、ストーリだけでなく、その中にあるものに興味を持ちはじめて、そこへ飛んでいく。小説家はそのようなものを発信する人なのでは。

 読者を刺激して、興味を持たせることは、作家として素晴らしいこと。別の世界への扉を、開かせる。

―扉を開けるか・開けないか。枕元に置いておくか・置いていかないかも、「扉」なのかもしれない。誰にとっても、すごくわくわくすること。

 それを伝えようと目的にすると難しいが、結果的に伝わっている、ということだ。例えば学生から見て、私のやっていること(自主ゼミ)はどうだったか。評価するとしたら。

―オープンではなかった気がするので、その辺はどうか。来るのは決まった人。扉を開ける・開けないかが、すごく大きいところ。何でも扉を開けようと思う人しか、来なかった。

 おもしろがる才能というものがある。けれども、おもしろがり方にも、磨き方がある。そこは少しは、私が協力できることがある。おもしろがらない人をおもしろがらせるには、また別のデザインで、別のやり方がある。


参加者からのご意見・ご感想

西山英作様(東北経済連合会産業経済グループ部長)

◆サイエンスコミュニケーションを絆に、学生、教員、主婦などが同じ場を共有して議論することは、地域のイノベーションを生み出す温床になります。
◆特に20代の若い方々が組織を作って受け皿を作ったことは、仙台・東北にとって極めて重要です。
◆ぜひ一緒に議論を進化させ、イノベ―ティブな東北を作りましょう!


※次回予告とこれまでの様子は、こちらからご覧になれます。



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