第5回「科学と社会」意見交換・交流会 ~科学で地域づくりに向けて~
結果報告(矢野雅文 氏(東北大学電気通信研究所所長、東北大学教授))
「科学と社会」意見交換・交流会とは、「科学と社会」をテーマに、毎回各界から多彩なゲストを迎え、ざっくばらんに議論するニュータイプのサイエンスカフェです。「科学と社会」についての捉え方は、立場によって異なります。ゲストが「科学と社会」をどのように捉えているのかお話頂くところから会はスタートし、その切り口から、ゲストと参加者で活発なディスカッションを行います。
今回は東北大学電気通信研究所との共催で、10月10日(土)東北大学片平まつり「高校生のための特別イベント」の一環として、電気通信研究所所長の矢野雅文さんをゲストに迎え開催しました。矢野さんは、九州大学大学院理学研究科で博士課程を修了(薬学博士)、東京大学薬学部助教授、東北大学電気通信研究所教授等を経て、07年から東北大学電気通信研究所所長を務めています。「生きていることとは何か?」特に「生命システムの情報原理」に興味を持って研究している方です。
本会は、矢野さんの切り口について、矢野さんからその意図をお話頂く講演会からスタートしました。後半の1時間は、宮城の日本酒の代わりにお茶を交えながら、高校生も含めた立場の異なる多様な参加者が、交流会形式でゲストの矢野さんとざっくばらんに意見交換をしました。本会は、明確な落としどころをつくることを主目的とせず現状認識を主な目的としています。毎回、多様な立場のゲストと参加者により、「科学と社会」の多面性が浮かび上がる場になることを目指します。
日時 | 2009年10月10日(土)15:00~16:30 (※『片平まつり2009』(東北大学電気通信研究所一般公開)高校生向けイベントと共催) |
場所 |
東北大学電気通信研究所2号館2階W214(仙台市青葉区片平2丁目1-1) ※アクセスマップはこちら |
ゲスト |
矢野 雅文 氏 (東北大学電気通信研究所所長、東北大学教授) |
参加費 | 無料(高校生参加のため、今回は宮城の日本酒とお魚は出ません) |
次第 |
15:00~15:30 ゲストによる講演会 15:30~16:30 ゲストを交えた意見交換・交流会 |
申込 | 不要(直接会場へお越しください) |
ゲストプロフィール
矢野 雅文 (やの まさふみ)
1946年福岡県生まれ。薬学博士。74年九州大学大学院理学研究科博士課程満期修了、東京大学薬学部助教授、東北大学電気通信研究所教授等を経て、07年年より東北大学電気通信研究所所長。「生きていることとは何か?」特に「生命システムの情報原理」に興味を持って研究している。
ゲストの切り口
「科学と社会」は今、大きな曲がり角に来ている。科学が社会に占める割合が非常に大きくなり、科学技術なしに現代社会は成り立たなくなった。そもそも科学技術のあり方は人間がコントロールするべきことで、科学技術のウェートが小さかったときはそれが可能であった。しかしながら科学技術のウェートが大きくなると、社会における人間の諸活動に対しても科学技術の方法論を適用するようになった。科学技術が成り立つ前提を超えた存在である人間の活動に科学技術の方法論を適用したために様々な問題が生じている。それを解決するには、両者の違いを認識して科学技術を用いることと、生きている人間を取り込んだ科学技術を創ることが必要になるであろう。
◆科学技術を使えないところに、無理やり科学を使っている
科学の方法論は、原理的に言えば「二元論」。「デカルト切断」と言われるように、人間と対象を切り離し、他と干渉しないところで、現象を切り取ってくる。そこに含まれる複雑な要因を排除して、法則性を見つけてきたのが科学の方法論である。
問題はこのような科学の方法論が人間の諸活動に対して使えるかどうかである。本来、人間の諸活動はお互いに関係しており、他と切り離してはありえないし、複雑な要因を排除すると人間らしさが除かれてしまう。
しかし、現代社会は、人間の諸活動に対しても、この方法論を使うようになったことが問題である。対象を切り取ってしまうと、まわりとの関係がなくなるので、そこで自己完結的な目標が創られることになる。目標自体を制限するものは存在しないから、無限に追求することになる。たとえば、企業の利潤の追求など。
最近それが一番端的に現れた例が、サブプライムローン問題。現代統計学が成り立っている前提とサブプライムローンが成り立つ前提は異なっている。しかしサブプライムローンでは統計学を金融の世界に持ち込んできて、リスクを証券化して、投資対象として売りだした。もともと使えない理論をあたかも使えると詐称して使ったわけだから、これは科学を使った構造的な詐欺だと僕は思っている。
このようなことが生じたのは、物質科学である科学技術の限界を認識して、それを超えた人間対象の科学技術を創ってこなかったためである。
◆二元論から先の科学技術をつくる
これまでの科学技術の前提を、もっと広げた形で成り立つ科学技術、人間というものが入った科学技術が必要で、その方法論を、我々はきちんと作り上げていかなければならない。
これらのことを十分考慮すること無しに、利便性だけを追求する科学技術が発展したために、人間性そのものが壊さていれる人がたくさん出てきている。この適応不全と言われる病気は、科学技術がつくりだした病気だと言っても過言ではない。
これらの問題を解決するには、科学技術のあり方を変えなければならない。本来、科学技術は人間を幸せにするためにあったはずだから。
そのためには、人間の諸活動の情報原理を明らかにして、科学と人間が調和するように科学を発展させていくことが、非常に大切だ。それできなければ、本当の発展とは言えない。
◆「認知する脳」ではなく「適応する脳」
我々の見方は、環境にうまく適応するために脳は適応してきた、という脳の見方。「認知する脳」ではなくて「適応する脳」。これまでの脳の見方とは全く異なる。
「認知する脳」とは、一定の環境において脳がどう働くかを研究する方法論を用いている。一方、「適応する脳」とは環境に適応するために特化した器官として発達してきたのが脳だと言う見方。この適応機能の研究がとても遅れている。
適応するために重要なことは、「真・善・美」。我々のひとつの行動規範でもある。そのような情報を処理する部分が、我々が研究している、大脳辺縁系や脳幹などの脳の一番深いところ。この部分が正常に機能しなくなっているのが適応不全だと言って良い。
昔から教育では、その部分の脳の働き方を、人間と人間の関係の中で教育してきた。けれども今の教育は、大脳皮質という、その上の部分にある「知」と呼ばれる部分の教育、すなわち「知育」に偏りすぎている。
本来ならば、日常的に出会う事柄に対して、どのように判断し、どのように価値付けていくかをしっかりと教育していくことが大切。けれども今の教育では、それをきちんとやっていない。
繰り返すが、科学技術が間違っているわけではない。科学技術の方法論は、いわゆる物質世界における法則性の話。問題は、物質世界に働く法則性を、人間の活動にまで、適用しようとした。そこに、非常に大きな問題があるというのが僕の認識だ。
◆創造性をどうすれば発現できるか
適応とは何か。例えば人間は、これまで出会ったことがない環境に対して、予め情報持っていないにもかかわらず、そこにきちんと適応することができる。すると、その間に何が起こっているのか?
これまでなかった情報がつくられていなければ、そこに適応できていないはず。つまり人間は、適応するために日々、情報をつくりながら生きているということだ。
命あるものは皆、適応しながら生きている。つまり、情報をつくりながら生きている。それが創造性だ。クリエイティビティをどうすれば発現できるのか、それが問題の本質である。けれども創造性は、今の科学技術の方法論からは出てこない。
我々が持っている内在的な知と、外に存在する知は、明らかに異なる。必要なことは、人間がどうやって、情報をつくっていくか、新しい価値をどうやって創っていくかを考えること。そうでなければ、その科学技術と人間の諸活動の間のギャップはうまく埋まっていかない。
既に存在している「外在的知」を教えることが、これまでの「知育」。今の教育では、答えがひとつしかない。下手にクリエイティビティを発揮すると、試験に通らない。しかし本来ならば、クリエイティビティを発揮できるような教育があって良い。
日常生活では解はユニークに決まらなくても良い出来事はたくさんある。ひとつに決まることの方が、うんと珍しい。力学ですら、三体問題になれば、解析的な答えは見つからない。
人間を、いかに人間らしくつくっていくかが教育。もっと生き生きとした人間をつくることはできないだろうか。自分で自分の生きる目的を、各人がつくって生きていくことができる世界が良い。
そう言う社会や教育は不可能ではない。そのように意図してやれば、できるはず。本来人間が生きているのは、そういう世界なのだから。
主なディスカッション内容(一部抜粋) ※―は参加者、その他は矢野さん
科学はどこまで進歩すれば良いのだろうか、という問いを皆さんに投げかけたい。
―高校教諭。例えば、もし機械が意志を持つようになったとすると、少し戸惑いを感じてしまう。ブレーキや歯止めが外れたら、どうなってしまうのだろうか。個々の要素は面白いと思うが、その延長線上のことを考えると、漠然とした不安はどうしてもある。
現在の設計では、機械を動かすときに拘束条件をつくるやり方をするが、その目的をつくるところは機械にやらせないようにしていかなければ、今言われたような問題は必ず起こる。倫理的な問題が必ず起きてくるので、人間がコントロールできるところまでしか、設計をしてはいけないと考えている。
―研究者。人間活動そのものに、科学の方法論そのものを使うのはどうかという、矢野先生の問題提起について。人間活動そのものを捉えようとするときに、その中に何かしらの因果関係を見つけていくことは仕方がないことだと思う。人間活動そのものに科学の方法論を使ったとき、現時点で例えばサブプライムローンのような問題が起こっているのは、人間活動の要素を人間自身がまだうまく特定できていないためなのか、それともその方法論を適用すること自体が間違いとお考えか。
科学が成立するためには、「一定の環境」という前提が暗黙の上にある。しかしながら我々人間が住んでいる社会は、人間が活動することによって、環境そのものがずっと動いている。そもそも環境が動く中でどのような法則性があるかという空間的な情報処理が今のシステムの中には入っておらず、因果関係は単なる時間的な関係でしか入っていない。今その問題が、非常に効いている部分があるということ。「人間」と「環境」という分け方をしては、もう問題は解けない。「環境」と一緒に「人間」が動いていくことを入れた形で、法則性を探す形にしていかなければならない。そのような意味で、考え方を変える転換期であると考えている。
―会社経営者。情報処理の中で「場」と「間」について話していたが、もっと詳しく説明して欲しい。
「場」とは、空間的な関係。「間」とは一様に流れる時間ではなく、時間の中で我々がウエイトをおいて物事を処理しているところ。例えば、順番というものが持つ意味がある。いちいちボトムアップで処理しているのではなくて、非常にざくっと処理をしているということ。
―起業経営者。ビジネスの世界でも、ルールや仕組みをつくると、その存在理由がわからない新入社員が出てくる。ルール化、公式化することによる弊害が、科学の世界にもあるか。
情報には、明示的に書けるものと書けないものがある。例えば「美しい」と感じたときに、それを書き表せと言われても、なかなか書き表すことはできない。それは、シンボルの中に価値の世界がくっついており、価値の世界の方がずっと情報が豊富なためである。そのダイナミズムの方が大事で、この部分の教育も、子どもの頃からずっとやらなければ駄目。しかしながら「知識」ではなく「知恵」を獲得させていくプロセスを、今はきちんとやっていないのではないか。「知識」はどこでも拾えるが「知恵」は拾えない。これまでの社会ではキャッチアップで他に手本がいたが、今、日本がフロントランナーになった時、どのようにして自分たちの人生を設計していけば良いのか、そのトレーニングがきちんとされていない。それは大学でも同じで、非常に悩みどころ。だから、ルール化したら全部問題が無くなる、というのは有り得ない。
―高校で教育を受けている側。「知恵」という話を「創造性」という言葉に置き換えて聞いていた。今、高校で授業を受けて、「創造性」を何で教えられているかと考えると、なかなか思いつくところがない。僕はどういう大人に育つのだろう・・・。「創造性」を育むために、どのようなことが具体的に必要だと考えるか。
「こうなるはずだ」ということを、あることを根拠にして考える。「こうではないか」「ああではないか」と仮説をたくさんつくらないと、「創造性」は出てこない。試行錯誤しないと正解には辿りつかない。
―今、高校で授業を受けているが、皆、考えることが苦手。皆、さらっと流すようになってしまって、あれ?と思うのだが。感覚が麻痺してしまったものは治せるのか。
学生の言い訳に「習っていません」があるが、そもそも研究は新しいことをやるもので、習っていることだけがすべてではない。けれども人間は、時々刻々、創造的に生きている。程度の差はあるにせよ、そうでないと生きていけないことになっている。初めて来た場所で椅子に座れるということは、ロボットにはできない。ロボットは教えたことしかやらないから。つまり「創造性」は皆持っていて、それを伸ばせるような環境にすれば、「創造性」は出てくる。だから心配しないで。
―「創造性」の定義は。
これまで持っている情報だけでは、日々の生活は成り立たない。すると自分で付け足していかなければならない。それが「創造性」。日常的に皆、新しい環境でちゃんと適応できるということは、時々刻々、創造しているということ。皆さん一人ひとりが創造的である。
―日々私たちが「創造的」であるとしたら、一体何が問題なのか。
自分で目的、ビジョンをつくって生きていくことが大事。
―高校教諭。「科学と社会」が議論のテーマ。私は科学と技術は違うものと考えているが、一般的には「科学技術」という括りの中で語られることが多い。矢野先生の科学、科学技術、社会の読み解き方は?
科学技術は、科学と工学を合わせたもので、科学を応用して技術をつくるという意味。しかし科学はそれだけではない。応用だけではなく、もっと広いもの。
―科学は、そもそも社会と接点があまりないものだと考えているが。
科学と社会の接点は、無くても良い。真理というのはもともとそういうもの。必ず応用しなければならないとか、応用できるから価値があるとか、それとはまた別のものだ。
―一般的な言い回しでは「科学技術」となっており、「科学」独自のものが、かなりぼやけている印象を受ける。「そんなことわかって何になるの?」と考える人が結構多い。基礎科学の価値を世の中が認めなくなると、科学技術が狭くなるのではないか。
科学の進歩を経済的な発展とイコールとすることが、そもそもの誤り。
―矢野先生は理学部出身で、今は工学部の立場。昨今の「理学部の工学部化」に対して、どのようにお考えか。
今は、応用や何に使えるのかばかりを問題にしているが、本来ならば好奇心でドライブされるのが学問であって良い。その価値をほとんどなくすような、非常に近視眼的なものの見方になってきたことが、そもそも社会の問題だ。もっと真理の探究をする人がいることを認めても良い。ワトソン・クリックも、昨今のバイオテクノロジーの応用まで考えていたわけではなく、好奇心として興味のあるところで研究していたと思う。例えば僕らは研究をしているときに数学をよく使うが、「こういう数学を良くぞちゃんとやっていてくれた」と常々思う。僕らは「これに使える」としか数学を使っていないが、数学者はちゃんとそこまでやっている、不思議なことに。けれどもその数学者は、役に立つ・立たないは、全然関係なくやっているはずだ。
―今の風土として、「わかりやすさ」が求められ、「それが何になるのですか?」というところに人の関心が集まっていると感じている。考えることに価値があるという風土が、あまりつくられていない気がする。
研究をしていて良いところは、何かをやっていると見えるところが広くなるところだ。それは山を登っているようなもので、どんどん視野が広がっていく。その爽快さが忘れられない。金の世界ではない。銭金は人が勘定することで、自分には全く関係ない。
―高校生。そのような研究は楽しいと思うが、それを楽しいと思わなかった人たちに対して、その楽しみをどうやって伝えれば良いと考えるか。
全員が研究者にならなくても良い。
―日々の仕事が楽しみであって欲しいと、常々考えているのだが。
学問でも同じ。何かを始めて面白くできなかったら、本人の責任。見方や考え方を変えれば、どんなことでも楽しくなる。どういうことをやっていても、自分で考えていたら、必ず面白くなる。
―「数学が嫌い、嫌い」と言っている友人に、ぜひ言い聞かせてやりたい。
一生懸命やっていたら、必ず一流にはなれる。超一流になれるかどうかは別だが。
―「これまでは機械に人間が合わせてきた、これからは人間に機械を合わせる時代だ」という矢野先生の話について。そのために科学技術なり工学なりは、これからどういう風に発展させていったら良いと考えているか。
今とりあえずは、ある種の推論ができる。これまでの推論はセレクションだったが、これからは曖昧な情報に対して、きちんと推論することはできるだろう。例えば今の音声認識は、不特定の人がわ~っと話していても、ちゃんと学習をさせなければ認識できない。段々良くはなっているが、人間のように柔軟にはできないのが現状。そのようなものも含めて、人間の能力にある程度近づいたものにしていきたい。音声認識も、音素の認識レベルは約70%だが、単語にすると100%近くなる。つまり、きちんと推論をしているということ。ただし今は確率的な推論なので、これからは人間のように関係論的な推論をやらないといけない。今のシャノンの情報論は確率論だから、ノイズの訂正も全部、確率論的にやっている。それは確率的な性質がわかっているという前提があるからできる。世の中、確率的な性質がわかっていない現象や、一回きりしか出会わない現象もたくさんある。そのような現象もちゃんと処理できるようにならなければいけない。
―矢野先生、本日はどうもありがとうございました。